東京 町田市 多摩美術大学の1年だった井出真代さん(当時18)を捜しています。

投稿日: 2019年8月18日投稿者: 

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https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190814/k10012034961000.html?fbclid=IwAR3OmIvkBpnxLA3IXee-dqJD2Mi8ukNAx2_H9_4qWfhfjE2-E8QLOsNRngQ

 

Facebookでお友達のおかざきさんの知り合いらしいです。

 

見つかりますように。

 

2019年8月14日 16時29分

 

平成11年、東京 町田市で当時、大学1年生だった18歳の女子学生の行方が分からなくなってから、14日で20年となります。

 

 

警視庁は、事件に巻き込まれた疑いもあるとみて捜査していますが、有力な手がかりはなく、家族は情報を寄せてほしいと呼びかけています。

 

行方不明になっているのは、当時、東京 町田市に住み、多摩美術大学の1年だった井出真代さん(当時18)です。

 

平成11年8月13日、町田市のJR成瀬駅近くのレンタルビデオ店に訪れたのを最後に行方が分からなくなっています。

 

13日、両親や弟たちは愛知県の実家に帰省しましたが、井出さんは翌日の8月14日に歯科医院に行く予約があり、町田市内の自宅に残ったということです。

 

しかし、歯科医院を訪れた記録はなく、警視庁は、行方を捜査してきましたが、有力な手がかりは得られていません。

 

井出さんの家族は、娘の服装や当時の所持品などを記したチラシを作成し、ささいな情報でも寄せてほしいと呼びかけています。

 

父親の井出敏一さん(72)は、「20年ということは、私たちと過ごした18年6か月よりも長くなってしまいました。それが非常に残念で、今の顔がどのようになっているのかすら分からない感じになってしまいましたが、私たちはまだまだ諦めていませんし、探し続けます」と話しています。

 

井出さん 油絵などの勉強に励む
 

家族によりますと、井出さんは油絵などを中心に絵画の勉強に励んでいたということです。

 

家族は、いつ娘が戻ってきてもいいように、井出さんの部屋は今も当時のままの状態にしていて、魚や女性をモデルにした力強いタッチで描かれた油絵が飾られています。

 

また高校生の時にモデルの経験をしたことがあり、家族によりますと、絵の道とともに、演劇などの分野に進むことも考えていたということです。

 

父親の敏一さんは、「真代は非常に集中力のある子で、物事に没頭する能力や感性があり、すごい勢いで絵を描いている姿が印象的でした。絵だけでなく、演劇や本など、文化や芸術に興味があり、明るくて天真らんまんに生きていて、みんなに好かれるような子でした。早く戻ってきてほしいです」と話していました。

 

行方不明の経緯と捜査

 

井出真代さんについて、警視庁は事件に巻き込まれた疑いもあるとみて捜査を進めた結果、20年前の平成11年8月13日の夕方、東京 町田市のJR成瀬駅近くにあったレンタルビデオ店に訪れたのを最後に、行方不明になっていることが分かっています。

平成11年の8月13日、井出さんの家族は愛知県豊田市の実家に帰省しましたが、井出さんは翌日の8月14日に渋谷区内の歯科医院に行く

 

予約があったため、町田市内の自宅に残ったということです。

 

しかし、翌日の14日、歯科医院を訪れた形跡はなく、家族が娘のPHSに電話しましたがつながらず、警視庁に行方不明者届を出しました。

警視庁によりますと、当時、井出さんは、身長1メートル71センチで、茶色い髪のショートカットでした。

レンタルビデオ店を訪れた際の服装は薄緑色のノースリーブにジーンズをはいていて、水色の紀伊國屋のトートバッグを持っていたとみられています。

 

所持品として1万5000円の入った財布とPHSを持っていたとみられ、警視庁の捜査の結果、レンタルビデオ店から成瀬駅方面に向かう姿が最後の目撃情報だということです。

 

井出さんの家族は特徴が似た女性を見たことがあるなど、ささいな情報でもいいので寄せてほしいとしています。

 

父親「娘はどこに 情報を」

 

井出さんの父親の敏一さんは「あっという間に20年がたってしまいました。ささいな情報でもいいのでお願いします」と情報の提供を呼びかけています。

 

井出さんは、美術大学に通うとともに、高校時代はモデルの経験もあったということで、敏一さんは「かなり明るくてみんなに好かれるような子で、頼もしく思っていました。絵だけでなく、演劇だとか、文化的、芸術的関わりには興味がありました」と娘について振り返りました。

 

そして、娘を自宅に残して愛知県に帰省する際のやり取りが最後になったとして、「『行ってくるね』と言ったら『元気でね、行ってらっしゃい』というやり取りはしました。あれが最後になるとは思いませんでした」と話しました。

 

敏一さんは「20年ということは、私たちと過ごした18年6か月よりも長くなってしまいました。今の顔がどのようになっているのかすらわからない

 

感じになってしまいましたが、それが非常に残念です」と悔しさをにじませていました。

 

そのうえで「当時は防犯カメラが少なく、スマートフォンもない時代で、映像がとれませんでした。ここにきてソーシャルメディアツイッターだとか、SNS、LINEが飛び交う時代になったので、皆さんのご協力をお願いしたいです。私たちはまだまだ諦めていませんし、探し続けます」と話していました。

https://www3.nhk.or.jp/…/html/20190814/k10012034961000.html…

 

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